「滅私奉公な働き方が偉いのか?」
こんばんは、とさやです。
今日は久々に働き方についての記事です。
まず冒頭から言っておきますと、とさやは滅私奉公的な働き方にとっても疑問を持っているタイプの人種です。
いや、疑問を持っているというより、そんな働き方はおかしいと思っているし、大嫌いといった方が正しいですね。
あらかじめ断っておくと、とさやは別に働きたくないとかそういうことをいいたいわけではございません。
日本のサラリーマンはこういう話題を出すと、「今どきの若いものはやる気がない」だとか、「長時間働くことによって自己実現がなされるのにわかっていない」とか「働き方改革なんて仕事さぼりたいだけだろ」とかの糾弾が始まるわけですよ。
とさやから言わせると、そういう風にすぐに糾弾しはじめる人ほど思考停止に陥ってると思うんですよね。
そもそも、滅私奉公のように会社に尽くして働くことこそが正義という風に考えていて、それを他人に押し付けるのは悪ですよ、悪。そりゃ、仕事大好きで大好きで趣味は仕事です、みたいな人だったらそりゃいくらでも働いてください、と思います。でも、世の中にはそんな人ばかりではないのです。
なんだか、今の日本のサラリーマンは滅私奉公のように働ける人が偉くて、そういう働き方がおかしいと思っている人が怠け者として思われる風潮があります。これっておかしなことじゃないでしょうか。
「滅私奉公になる理由とは」
滅私奉公が日本社会にここまで根付いているのは、江戸時代の藩制度からとか、軍国主義にもたらされたとか諸説あるようですが、とさやはやっぱり高度経済成長期の働き方に由来してると思うのです。
とさやは高度経済成長期の時代にサラリーマンをしてないので、実体験としてはわかりませんが、当時は今より長時間労働だったというような話を上司からよく聞きます。それで「俺がお前たちの歳のときは毎日終電だったんだぞ、それに比べたら今は楽じゃないか」とか平気でいうわけです。
いやね。当時は人口ボーナス期で働けば働くほど所得が増える時期だったんですよ。そりゃやる気もでますって。ただ、問題はそこじゃいんですよ。
人口ボーナス期の時は、当然労働者も多いわけです。そう、今では考えられないほど多くの人員がひとつの仕事に投入されていたわけです。するとどうなるか。一人で仕事を担当するということはなく、チームで仕事を進めていくわけです。助け合いですね、助け合い。これはとってもいい慣習だと思います。自分ひとりで仕事を抱えていくわけでもないので、精神的にも追い詰められにくいわけです。
ただ、いいことばかりでもない。
チームで働くということは、他の人と同質でなくてはならない。異端は認められないわけです。
たとえば、自分は今日は家でナイターが見たいからちょっと早くあがっちゃおうかな、なんてことは許されないわけですよ。
というか、そういうことを言っただけで叩かれるので、そういうことすら言い出せなくなる。
じゃあ、このような環境で生き残るためにはどうすればいいかというと、会社のために一生懸命働くことが結果として給料にも跳ね返るし、仲間から村八分にもされないってことになるわけですね。
当時は、終身雇用が当たり前でしたので、会社が生活を保障してくれるという意識も強かったでしょうし、そりゃこういう働き方もありだったんでしょうな。
結果として、滅私奉公のように働くことが当時の日本社会で働くことの最適解のようになっていったのです。
「滅私奉公上司の台頭」
さぁ、ここで現代に戻ってきます。
当時、滅私奉公の様に働いていた人が今部長とか役員とか、とにかく偉いポジションにいる時代です。
この人たちは、過去自分が若かったころの成功体験として、プライベートなんて投げうって仕事仕事仕事の生活をした結果、今があるというように強く自覚しています。
そうなると、この成功体験を部下にも当てはめようとします。
この猛烈滅私奉公上司の直属の部下として育てられた人材が、課長とかの中間管理職となっていたとしたら、今の20代や30代にもそれを強要してくるようになるわけです。
これが、まさに悪のスパイラル。
いい加減、このスパイラルを抜け出さないと人口オーナス期にいる日本の会社の繁栄はなくなってしまうと考えるのはとさやだけではないはずです。
なんとかして、こういうところを変えていきたいですね。
ちなみに、とさやは電車の運転の仕事の時は、毎日が仕事が楽しくて楽しくてたまらなかったですよ。
結局はその人に合ってる仕事を出来て、でも、運悪く自分に合わない仕事をしていて、仕事が辛いなと感じている人に寛容になれる心を皆が持てればいいですよね。
それでは、また。